9月の通信から

猛暑の続いた夏から一足飛びに秋になってしまい、道端のススキが風に揺れています。
みなさん夏の疲れなどは出ていませんでしょうか。時節がらお体をお大事に。

山口県宇部市での「登校拒否・不登校を考える夏の全国大会」に参加してきました。21日の世話人会からの参加なので20日の退勤後、上京して東京駅22時発の寝台特急サンライズ瀬戸に乗車、岡山に早朝到着しました。車中は普段はつん読になっている本や新聞をまとめ読みしていて、新山口までの新幹線に乗り継いだつもりが、とび乗ったのは鹿児島中央駅行きの「みずほ」で、新山口は通過してしまい、関門トンネルを通って九州まで行ってしまいました。九州の玄関口、門司でおりて上りの新幹線を待つ間、九州の空気を吸いながら、駅構内の喫茶店でコーヒーとホットドックの朝食をとり、再び新山口まで引き返しました。それでも、昼過ぎからの世話人会までは時間があったので、宇部線に乗って会場の宇部フロンティア大学の最寄り駅までローカル線の旅をしました。宇部線はほとんどが無人駅で、どことなく懐かしい風景を眺めながら1時間ほどかけて会場への最寄り駅、岩鼻駅に到着しました。
今年も多くの出会いがありました。心に残る言葉をかみしめています。           

≪子ども若者シンポジウム・・・当事者の声から≫

中学生だった僕が寝ていると、毎朝、母親が起こしに来て、「学校に行け」と布団の上からたたいた。最初は優しく、次は、布団たたきで、その次は長ぼうきでたたかれた。11時になるとあきらめて行ってしまう。そうすると、大正生まれの祖母が来て、布団をかぶったままの僕に、「〇〇くん、生きちょりさえすればどうにかなるからのー。」と毎日声をかけてくれた。自分なんか価値がないと思っていたが、その言葉で今日まで生きている。

「引きこもって寝てばかりいた時に奥地さんの本や、当事者の文集「子どもたちが語る登校拒否」を読んで泣き、その本に線を引いて、自分は一人じゃなかったと思った。ひきこもって雨戸をしめていたが、家の前が通学路だったので、友達のキャアキャアという声が聞こえる。起きていると刺激があって苦しいので昼夜逆転していた。夜起きてその本を読んでいた。誰にも会えなかった。何度も死にたかったがその本のおかげで、「30まで生きたら」と言われた気がした。30になったら楽しくなり、今は楽しく過ごしている。」

「学校へ行けという母に暴力をふるっていた。子どもに暴力をふるわれて母はつらかったと思う。母が憎くて100%の暴力をふるったわけじゃなく、『お母さん僕の気持ちをわかってよ。』という気持ちだった。田舎なので、近所に噂されて自分も犯罪者になったような気持ちだった。父は大きな岩のような存在で、怖くて近寄れなかった。その頃は父母から愛されている実感が全くなかったが、最後まで味方をしてくれるのは父、母、家族と今は感じている。」

「世間さまに顔むけができない。」と言われたとき、世間さまだと思う人の顔を思い浮かべてみたら、私にとって大事な人じゃなかったので、たいしたことじゃないと思った。自分の身内や大切な人には、自分を理解してほしい。考えは違っても丸ごと受け止めてほしい。そのままの姿でそこにいてほしい。子どもにもそう伝えたい。」

母への甘えや期待感を裏切られることがつらかった。母と私は別人と、距離を置いたことで楽になった。

母が自分の趣味を全部やめてしまい、家族がもめてつらい時期があった。母には笑顔で自分の人生を楽しんで生きてほしい。


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