2016 年6月の通信から

若竹.jpgわが家の裏の竹やぶの取りそこねた竹の子が、いつの間にか皮をつきやぶりながらぐ んぐんのびて、すでに青々とした若竹に育っています。仕事から帰ると畑に直行して取 っていたさやえんどうのつるも私の背丈を超えてのびながら花をつけ、手をのばしての収穫となりました。新緑の季節ですね。 5 月 28 日に行われた内田良子さんの講演会(チャイルドラインこおりやま受け手養成 講座)は会場いっぱいの参加者がありました。講演会終了後、内田さんを郡山駅まで見 送って自宅に帰ると、自宅のパソコンに初めて内田さんの講演を聞いたという方から「内 田さんに出会えて本当によかった。」というメールが入っていました。帰宅してすぐに メールをくださったようです。私も20数年前、内田さんの話を始めて伺ったとき、腑に 落ちるものを感じ、ほっとしたことを覚えています。「本当の支援は学校復帰でも就労 支援でもなく、人間は信じるに足るものだと人への信頼を回復すること」とは、まさに、不登校になった当時、走る車の中から校舎が見えただけで、学校が怖いとシートに深く 身を沈めた長男の姿を見て心から感じた事でした。
以下は内田さんのお話からです。

何とかすべきだというものでがんじがらめになっていることがある。「べき」というものがあまり入り込まない生活の部分もあると思う。それは何が違うのかなということに気づ き、私が「べき」と考えるのはどういうことなんだろう。自分自身の「べき」が出てこないのはどういうときなんだろうと自分自身の生活の中でチエックしてみることが役に立つか もしれない。子どもとの関係で「べき」が多い。「しつけをすべきである」「勉強させるべきである」「学校へ行かせるべ きである」。子どもが親の思うとおりに動いてくれていないときが多い。大事なのは子どもに聞くこと。「どうしてなのということを聞く」とお話すると、問いただす方が多いが、それでは「許しませんよ」という話になり、子どもの理由を 聞いているわけではない。親は子どもに対して権力を持っていて、対等な立場で子どものリズムを待つということがむずかしい。傷ついた子どもが 話をするためにはゆっくりと流れる時間が必要。今の日本の家庭にはそれがない。むしろ、不登校になってから家の中にゆっくりとした時間が流れるようになる。 傷ついている子どもは「人を信頼できない。人はわかってくれない」と傷ついている。 その傷を最初に修復できるのは親子関係。聴く耳ができた人に子どもは話す。「べき」 は多くの大人のお腹の中に沈んでいて、息づかいや会話の中に出てくる。 繰り返し聞いてもらうことで、おりのように地層のように溜まっていたひとつひとつの 心の痛みが言葉になって表現され、その表現されたものを、誤解せずにちゃんと聞き取 ってくれたら初めて傷口が洗われ、ふさがる。その子の立場で何があったのかを一部始終、口を挟まず解釈をせずにその子の物語を聞くということ。その物語の一部始終をち ゃんと話ができたときに、その子の傷口は洗われ閉じる。傷口が血を吹いていたときは 常に痛みは現在形。話をし終わり、心の傷が洗われて傷口がふさがったら過去の時系列 のところに収まる。話を聞くことで痛みや悲しみを弔うのと同じこと。そこに収まったときにその記憶は過去のものとなってその子の心の中にちゃんと居所ができる。現在形 で苦しめられていたことが過去形になる。

「親の会は失敗の宝庫です。」とは、以前の夏合宿での内田さんの言葉です。本当にその通り、たくさん失敗しながら学んで来ました。ともすれば追われるように流れる時間ですが、例会で失敗談を語り、熱いお茶とともに胸の奥に落とし込んでいきたいと思 っています。

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